大震災 あれから12年
温かい春 こんにちは 防災職人の中やんです。 満月とモクレン やっと初の確定申告、終わりました。(汗)終わった後の脱力感 ハンパねぇ~ 国のやることは何であんなに複雑怪奇なんだろうと、つくづく思います。もっとシンプルにできないものなんですかねぇ。 気がつけば、庭のモクレンも花が散っちゃいました(涙)あんなに可憐な純白の花だったのに。春の気配が日増しに高まっていますね。今年はいつもより暖かいような気がします。 そして、今日は 3月11日 もう 12年 も経ったのかぁ 311 発災(14:46) 鹿屋の航空隊にいた私は、地震も津波も直接遭遇することはありませんでした。当時、鹿屋の航空隊は、海外に派遣訓練に出ていて、私は留守番の飛行隊長代理として飛行隊事務室で午後の通常業務をしている時でした。 突然の緊急警報が鳴り響き、テレビをつけると『東北地方で震度7の地震、津波に注意を』と速報がでて、「東北か。九州は大丈夫だな。関東、東北の部隊は緊急出動で大変だな」くらいの感じでいました。 しばらくすると、倒壊した家屋や火災が発生している画像が繰り返し映し出され、アナウンサーが「津波が来ます。すぐに避難してください。」と叫んでいました。画面に映し出された津波を見て、これは本当にただ事ではないという感情がこみ上げつつテレビに食い入っていました。 突然、飛行隊長の席の電話が鳴り、同時に基地内放送で『応急出動機(何かあったときに最初に緊急発進する航空機のことです)準備でき次第発進』の放送が入りました。隊長席の電話も同じ内容で、司令部からの発進の指示と応急出動機以外にも飛ばせられる航空機をすべて発進可能状態にしておくようにとの指示でした。 隣の飛行隊と協力しつつ各部に指示を出し発進準備をしながら、「誰か、出身が東北・関東の隊員はいないか確認しろ」と言ったのを覚えています。これは、阪神・淡路大震災の教訓で、隊員家族が被災することがあるため必ずフォローするというものです。 海外に訓練に行っている隊員からも、関東の実家と連絡が取れないといったメールが入ったため、隊員の家族・親族で関東~北海道に住所があるものの安否確認をするよう指示をしつつ状況をうかがっていました。当然電話はほとんどつながらず、担当した隊員は汗だくになりながら電話機と格闘していました。 そんな中、私のスマホに、兄から「青森で航空自